プロフィール

ゆきの

現在加筆修正中です(2023/7/16)

めまして

みなみゆきのです。

娘を授かった瞬間から、
シングルママになることが決まり、
新生児を抱え、
毎月減っていく銀行通帳の残高を見ては、
毎日不安で泣いていた私が、

法人会社の設立を決意し、

“マサムネ”
との出逢いにより、

門外不出“禁断の戦略術”である
法人戦略を学びながら、
実行していく軌跡をリアルタイムに書き記し、

必要な方の元へ
私の経験をお届けしたいと思い、
情報発信をしています。

の歩み:娘誕生以降

【2015年春】
シングルママとなる事が決定
毎日不安で泣いてばかりでした。

【2015年夏】
「人生を”激変”させる」と決めて行動を始めました。

【2016年9月】
“法人会社のメリット”に気付き
法人会社の設立を決意するも、
具体的にどうしたら良いかがわからずにいました。

【2017年3月】
“マサムネ” から
法人会社設立〜経営のサポートを受ける事になりました。

【2017年7月】
株式会社を設立。
代表取締役となる。

【2017年12月】
日本政策金融公庫から融資を獲得

【2018年1月】
メインバンクから融資を獲得。

会社設立後半年で
法人口座の残高が一瞬で
今までに見たことのない額になりました。

【2018年6月】
無事に1期目を黒字で終える。

【2017年8月】
シングルママでも出来る事があるという事を
実体験を元に情報発信を開始。

ワタシは経営者としても人としてもまだまだですが、
まずは“法人戦略”のスタートは切れました。

融資も実行され、
一度も滞りなく返済を続けています。

実際に歩んできたところまでは、
歩み始めようとしている方に
お伝えする事ができると思っています。

最初の一歩を踏み出すお手伝いが
出来たら良いなと思っています。

ワタシのようなシングルママが
経済的自由と精神的自由を手に入れて、
家族との時間を大切に出来るようになったらと願っています。

が目指しているもの

一言で言うと「選択肢を増やす」ことです。

・大切な人を守れる力を持つ
・家族に好きな事をさせてあげる自由を得る
・やりたくないことはやらなくて良い自由を得る
・応援したい人を応援できる自由を得る

そのために、
“禁断の戦略術”である『法人戦略』を実行中です。

報発信をする想い

2018年7月より、
Facebook、公式サイト、メルマガを用いて

・自分が歩んできた道のり
・失敗した経験
・成功した経験
・学んだこと

を発信するようになりました。

私が “マサムネ” に出逢い、

・大きく人生を変えてきたように
・信頼できる仲間ができたように

私が自分の経験や想いを発信することで、

・人生を変えるキッカケになったり
・信頼し、共感しあえる仲間ができたり

そんな人が増えると嬉しいです。

ングルママでも出来た事

“起業”ましてや“法人経営”となると、
いまだに、
“男性で独立してばりばりビジネスをやっている人のする事”

と思いがちですよね。

女性、ママ、会社員など
“私には関係ない” と思うかもしれません・・・

でも、実際に『法人戦略』を始めてみると、
決してそうではない事がわかります。

逆に、良い条件で“法人戦略”を実行することが可能なのです。

“マサムネ”
にその事を告げられた時、

“私でも出来るかもしれない”
と思いました。

一筋の希望の光が見えたのです。

の強み

“法人戦略”に限らず、

いまだ見たことのない世界のことは、
想像したり想定したりしても違う事の方が多すぎます。

これからも初めての経験をしていくことになるでしょう。

でも私の強みは

“一人で戦っていない”
“信頼し共感しあえる仲間がいる”

ということ。

何より生まれて初めて
「お金のこと、お金の使い方、
お金の増やし方、お金の残し方」を
真剣に話せる仲間が出来たという事が
何ものにもかえがたい財産だと思っています。

だから怖くない。

“誰と一緒にやるか”

が一番重要だと思っています。

2018年8月4日 みなみ ゆきの

の生い立ち(1):生まれた頃

私が生まれたのは1981年の夏。

生まれた瞬間の記憶と
お腹の中にいた時の記憶は多分ない。

おじいちゃんとおばあちゃん
お父さんとお母さん
あと猫がいた。

あまり記憶がないのだけれど
父と祖父がたくさんの写真を残してくれている。

大事に育ててもらったんだろう。
幸せだった記憶しかない。

すでに退職して
家にいたおじいちゃんとおばあちゃん
子育てを機に退職したお母さん
夜になるとお父さんも帰ってくる

庭もある
畑もある
猫もいる

あまり記憶がないけれど
アルバムを何度も見ているから
写真がある時のことは覚えているんだなぁ。

特にこれといって書くことがない
ということは、
とても幸せだったのだと思う。

の生い立ち(2):幼少期

写真を撮って残すということ。

先日投稿したように
幼少期の記憶はあまりないのだけれど、
いつも日向のような
感覚だったのを覚えています。

母に聞くと、
窓際のライティングデスクの上に
おしめを外した私を乗せて
お尻の日向ぼっこをさせていたらしい…

その記憶なのか(๑˃̵ᴗ˂̵)

あとは
アルバムに貼られた写真を
何度も何度も見ることで、

内からではなく、外から
自分を見る事が出来たのかなぁ
って感じています。

父、母、
父方の祖父、祖母
母方の祖母
に抱っこされた写真が多く残っている。

その当時に感じていたかはわからないけれど、

「皆んなに愛されている」

という
とても大きな安心感が
ずっと私の中にあったのは

写真のおかげもあるのかなって
思っています。

その安心感があるという事が、
どれだけ心の支えになるか。

幼稚園、
小学校と進むにつれて
強く感じるようになるのです。

の生い立ち(3):妹が生まれた頃

2年後に妹が生まれた。
それからは
いつも一緒に写真に写っている。

庭の芝生で遊んだり
砂場で遊んだり
ソファででんぐり返しをしたり

どの写真を見ても
嬉しそうに笑っているなぁ(。・ω・。)

いまだに忘れられないのが
家族で訪れた
二見シーパラダイス

もわんとした湿気
シダ植物
赤い金魚とウサギの毛の柔らかさ

とても強い印象が残っている

あと
大好きなおばあちゃんと
鳥羽水族館に行ったこと

大好きなおじいちゃんと
公園に行ったこと

七五三で
可愛い着物を着たこと
千歳飴をもらったこと

ぜーんぶ覚えている

それも写真が残っているからこそなんだろうな。

娘の写真は
データでは残っているけれど
アルバムにはしていない。

少しずつアルバムにしていこうと思う。
きっと大事なこと。

の生い立ち(4):幼稚園の頃から先生が大好きだった

幼稚園の年少さんには行かずに
近所の体操教室に通っていました。

ぼんやりとだけれど
クラフープかボールを持って立っている
自分の姿を覚えています。

あとは
星の形をしたキャンディー。
お友達にもらったのかな?

おかげで、
幼稚園、小学校、中学校と
器械体操が得意でした。

マット運動、跳び箱、鉄棒などで
全く苦労をしたことがなくて、
楽しくて仕方がありませんでした。

環境を与えてくれた
両親に感謝です。

年中さんから
通園バスで幼稚園に通うようになりました。
母が車の免許を持っていなかったので、
通園バスがあるのが決め手になった模様。

初めての通園バスに乗る時は
泣いて泣いて
女の先生にヨシヨシしてもらった記憶があります。

のちに
バスのおじちゃんが大好きになって、
卒園後も年賀状のやり取りをしていたなぁ。

中学校の時の校長先生も大好きで、
卒業後お家に遊びに行ったりもしました。

この頃から、先生が大好きな子どもでした。

家では
畑で泥んこになりながら遊び、
庭で走り回って遊び、
たまに池に落ちて鯉臭くなったり…
(実は猫が落ちただけで
自分は池で泳ぎたいと思い続けていただけかも)

となりの植木屋さんに
秘密基地も作ったし、
田んぼの用水路で
魚やザリガニを捕まえたりもしました。

ほんと楽しかったなぁ。

幼稚園ではお絵かきをしたり
発表会の練習をしたり
英語で遊んだり
器械体操をしたり
園庭の築山で遊んだり
プール遊びをしたり

楽しかった想い出と
気の強い女の子にいじめられた想い出。

目立たないように目立たないように
というマインドをこの頃に身に着けたのでした。

の生い立ち(5):小学校時代はいじめられっ子

そして小学校入学
地元のほとんどの子がいく公立小学校

同じ幼稚園からは
3人くらいしか行かなかったから
同級生のほとんどが
地元の幼稚園からの入学。

ちょっとしたよそ者感を感じながらも
担任の女の先生が好きで楽しく通っていました。

2年生になり担任の先生が変わって…
あんまり好きじゃなかったのかな?
ちょっとした不信感。

2年だったか3年だったか
それくらいから
いじめられるようになりました。

子どもの世界って
誰かをいじめるけれど、
どんどんといじめる対象が
変わっていくんだよね。

私は本を読むのが好きで、
大人しいほうだったんだと思う
いじめやすいよね?

いじめられたら
怖いし嫌だ。
もういじめられたくないから
目立たないように存在を消してみたり、
いじめっこに迎合するような
態度をとってみたり。

でもいじめる側にまわることは
ありませんでした。

今思えば、
いじめっこにしたら
泣いたり、悲しそうな顔をしたりと
反応するから面白かったんだろうな。

4年生のころが一番つらかったです。

学校へ行くのも嫌だったし、
誰にも言えなかった。

そう、先生に相談したけれど
対応にショックを受けて
それ以降一切言うのをやめたのでした。

唯一の救いが
仲の良い友達がいたこと。

5年生、6年生になっても
いじめは続きました。

あの頃の写真をみると
自信がなさそうな
何かにおびえているような顔をしている。

あの頃の私に伝えたこといっぱいあるなぁ。

の生い立ち(6):中学校で王子様に出逢う

中学生ブラスバンド時代

中学に入学してすぐ
ブラスバンドの部活見学の時。
私の目の前に、
王子様がいた。

新しく顧問になったばかりの
N先生。

その当時は確か20代半ば。

大好きな先生と
大好きなブラスバンド。

おかげで、
小学校時代にいじめられて、
中学校時代もそうなるの?
と心配していたのに、
どーでも良くなってしまったのだ(笑)

毎日学校へ行くのが楽しくて仕方がない。

そのうち、
いじめっ子も
わたしが反応しなくなって
いじめ甲斐がなくなったからか、
いじめられなくなりました。

もうね、
先生が好きすぎて色んなことやりました。

学校では姿を探し、
登下校の道にあった小さな食堂では
車を探し、
部活動を1分でも早く始めるために
ホームルームが最短で終わるように
裏で暗躍したり、
部長なんて自信がなかったのに
引き受けてみたり。

(この頃は毎日
校庭外周5周+腹筋50+背筋50
やっていたなぁ…)

ある時、
副顧問のI先生と結婚するという
噂を聞いて、
ショックを受けた(笑)
2人が一緒にいるのを見るたびに
悲しくなったり。

そして、
やってきたバレンタインデー
勇気を出してクッキーを渡すことにした。

ココアとバニラの
渦巻きアイスボックスクッキーを焼いた。

一生懸命すぎて、
生地が温まって溶けて、
渦巻きの幅が
完成予想の2倍の幅になっていたなぁ…

精一杯のラッピングをして、
学校へ持って行く。

その日は一日中ず〜っと
そわそわそわそわしてた。

やっとのことで、
放課後になる。

先生を
空き教室に連れて行く…

そして渡した。

自分のカラダ全体に
心臓の音が響く

呼吸する音が聞こえる

全ての感覚器官が
開く

先生が何言ってくれたか
覚えていない

でも、
脳内妄想かもしれないけれど、
一度だけきゅぅっと
抱きしめてもらった記憶がある。

そうそう
一度だけデートしたなー♡
名古屋じゃなかったかな?

手作りの服を着ていった。
中学生が作る服といえば、
だいたい想像がつくかな(笑)

白いタイツ
履いていったけれど、
大事にしすぎて、
ちょっと黄色くなってた記憶がある…

(白色のものって黄色く変色しません?)

エレベーターと杏露酒の想い出。

甘酸っぱくて
幸せでござる。

そんなこんなで、
ブラスバンドが好きすぎて
楽しく学校に行っていた私は、
成績も良くて学年1番をとったりしていた。

中学でそれは終わるんですけれどね(笑)

の生い立ち(7):高校受験はしません?

高校への進学は考えていなかった。

好きな教科はあったけれど、
深く学びたいと思うこともなかったし、
将来なりたいものもなかった。

「高校受験はしません」

確かこんなことを担任の先生に言った気がする。

でも、中学の頃は学校の成績は良くて
オール5に近かった。

先生がびっくりして、
「高校へは行った方がいい!」
と強く勧めてくれた。

「じゃぁ、この中学校から
誰もいかない高校を教えてください!」

そうして教えてもらったのが、
地元では一番を争う進学校だった。

それも知らずに学校見学に行き、
受験をする。

併願なしの1本勝負。

高校受験を決めてからは、
仲の良い友達5人で
県立図書館に通って勉強をした。

(メソポタミア文明にはまっていた私は
勉強そっちのけで文献を読みあさっていたのは内緒)

そして合格。

第一志望の高校へ入学しました。

この高校で大正解でした。
進学校ではあるものの
生徒の自主性を重んじる学校だったので

1年生から3年生半ばまで部活に打ち込み
残りの半年で受験勉強をする友達

最初からコツコツ勉強する友達

私みたいに好きな教科だけは頑張るけれど
その他は低空飛行の人も。

いろんなタイプの学生がいて、
それが許されていた自由な校風でした。

あ、制服もなかったなぁ。

ルーズソックスが流行っていて、
それがはきたくて
自分でオリジナルの制服を用意して
ルーズソックスに合わせていた
女の子もいて面白かった(笑)

の生い立ち(8):高校では低空飛行♬

高校入学でリセット

先生が言ったように、
同じ中学校からは男子2名女子2名しか入学しませんでした。

しかも理系、文系でわかれるので
ほぼ会わないのです。

「これで0から出発できる」
「リセットできる」

と心底嬉しかったのでした。

ここでもブラスバンドを選択するはずが、
部活見学に訪れた音楽部に入部してしまう…
ここからトランペットとの長い長いお別れとなりました。

音楽部の活動はとても楽しかった。
OBとの交流もとても活発な部活で、
音楽大学をめざしている部員もいました。

コンクールでは中部大会まで出場。

第九を歌ったり、
アカペラを歌ったり、
バリ島の音楽ケチャを歌ったり、

担当はアルト。
とても楽しかったです。

勉強の方はというと、
大好きな教科は学年1番をとり、
苦手な強化は最下位を低空飛行。

落第だけは避けようと、
夏休みに猛勉強してクリアするなど
綱渡りしていました(笑)

数学の問題は
B4のわら半紙が2枚
表裏で8問しかない。
つまり全て自分で解答を書くスタイル。

1枚は0点。
2枚めは1点。

非常に危険な点数を取っていました…

あと、この頃にはまったのが
シフォンケーキを焼くこと。
凝り始めるととことんやらないと気がすまない私。

卵をケース単位で購入し
毎日2ホール焼いていました。

小麦粉の種類を変えたり、
米粉にしたり、
油の種類を変えたり、
お砂糖の種類を変えたり、
全卵、卵白、卵黄と比率を変えたり、
抹茶をいれたり、
チョコレートをいれたり、
ココアをいれたり、
オレンジジュースをいれたり、

いろいろ試していたなぁ♪

最初は膨らまず・・・
次第に膨らむようになるものの、
空洞が出来て冷めるとぺちゃんこになったり、
いっぱい失敗しました。

それでも何度も試行錯誤するうちに
「売り物みたい!」
と言われるシフォンケーキが焼けるようになりました。

その頃に付き合ってくれた
家族、友人、先生に感謝。

高校3年になる前の春休みに父を亡くします。

すぐに奨学金を借りて高校を継続。
奨学金の制度に救われたのです。

の生い立ち(9):かろうじて大学に進学

私がいた高校は進学校なので、
ほとんどの学生が大学に進学する。

そんな中、
「やりたい研究?なんだろう?」
「なりたい職業もわからない」
という状況だった。

そのまま就職をすることも考えたけれど、
「今すぐにやりたい事がないのなら、
選択肢を増やすために学ぼう」
と、大学進学を決める。

条件は、
・家から通えること
・国公立であること

それに加えて、
・学びたい先生がいること

これを満たす大学は1つしかなかった。
国立三重大学だ。

救いだったのは、
センター試験で必要なのが数2Bだったこと。
これが数3Cだったら諦めていた…

自分なりに勉強してなんとか合格。

大学では、図書館学を学んだ。
研究室はもちろん柴田研究室。
迷いなく選んだ。

あとは、奥の細道を特殊な方法で
研究している先生にも師事した。

一度はオーケストラに入ろうとしたけれど、
大学ではサークル活動はしないことにして、
奨学金をもらいながらバイトを始めた。

最初のバイトは、
閉業間際のスーパーのレジ係。
閉店セールの時なんて、
1人カート2台それぞれにカゴ2つずつという状態。
もう全力投球でレジを打ちましたね(笑)

次のバイトは、
ホームセンターの文房具、おもちゃ、
自転車、ペットのコーナー係。
毎日ハムスターの世話をしながら、
重たいコピー用紙などの品出しをしていた。

夏休みには住み込みのバイトもした。
嬬恋村のペンションでペンション経営のお手伝いと
鬼押し出し園に出していた露店のお手伝い。
台風の日にはキャベツの収穫も手伝った。

早朝にたたき起こされ
包丁を渡され
白いベンツに積み込まれ…
気づいたら畑の真ん中に(笑)

人生初のベンツに、
土のついた長靴姿で乗ったのもいい想い出。

そして、大学2年生の時に大きな出来事がある。
これに関してはいずれ。

の生い立ち(10):社会人編

大学卒業後、
地元のスーパーの事務兼販促係として就職。
毎日、伝票の計算、レジ金の清算、売価変更、
店内のPOP作成などを担当。

AC電源のついた大きな電卓を
見るのも使うのも初めてで
とてもびっくりしました。

商業高校卒業の同期の女の子がいて、
当たり前のように簿記の知識があることに
驚いた記憶があります。

即戦力になるのですね。

その後転職し4年。
これに関してはいずれ…書くかなぁ?

その後更に転職し、ホテルマンとして5年勤務。

高校の新卒の子と同じ日に面接を受けて、
採用されました。

採用してすぐは、
社長の期待を裏切ってしまったようで、
半年ほどいない存在(笑)として働くこととなりました。

数字にとても強いと期待されていたのですね。
本当に申し訳ない!

同僚の女性からは
「私だったら無理、すぐに辞めてるわ」
と言われながらも、
頑張りましたね。

人間味のある社長が大好きだったんですね♡

仕事内容としては、
フロント業務、電話対応、来客対応、
朝食補助、ホール担当、
楽天トラベルなどの予約システムの管理、
ホテル予約システムの導入準備、
客室清掃、エアコン清掃、
お風呂の換気扇分解清掃、
ホテルの窓清掃、
食材、アメニティ、リネン類の商談・発注

などなど、
様々なことをさせて頂きました。

「国際ホテルレストランショー」
商談専門展示会にも参加させてもらいました。

大きすぎるホテルになると、
担当部署がはっきりと分かれているので、
このような経験は出来なかったと思います。

本当にやり甲斐のある職場でした。

たまにヒョコッと遊びに行くと、
社長が優しく迎えてくださるのも嬉しいところ。

その後、結婚を視野にいれて
朝から夕方までの仕事に転職。

の生い立ち(11):最後の会社員〜妊娠まで

3年前、娘を授かった時、
私は歯科医院で院長秘書として働いていました。

この歯科医院は
日々の技術研鑽はもちろんのこと、
歯科医師、衛生士、助手、受付など
全てのスタッフが経営塾に参加する
地元でも有名な歯科医院でした。

そこで私は、
院長先生の学会論文のお手伝い、
ホームページの管理、
各種パンフレットの作成、
給与の振込などの銀行手続き、
求人などハローワークの手続き、
社会保険などの手続き、
スタッフのサポート、
各種マニュアルの整備、
などを担当していました。

ようするに縁の下の力持ち?

誰かの役に立つことが何よりうれしい
私の天職だとやりがいをもって働いていました。

フルタイムの正社員。
通勤時間は車で約50分。

一度は産後に復帰をする事を決めました。
でも私はシングルマザー。
※詳しくは次の章で書いています

ただでさえ1人しかいない親です。

「娘の成長をこの目で見ていたい!」
という強い想いが止められず、
退職することにしました。

とは言うものの、
不安で不安でたまりませんでした。

【銀行口座の残高が毎月毎月減っていくのです】

収入が0になっても、
税金などは前年度の収入で決まっていて、
支払いは続きます。
大学を卒業してから会社員を続けてきたので、
安定収入が途絶えた事がなかった私。

“銀行口座の残高が減る一方”
という状況が、
思った以上にダメージとなりました。

慣れない赤ちゃんのお世話、
授乳がうまくいかず
娘の体重が減る事への恐怖と罪悪感、
乳腺炎にもなりました。
不安から気づいたら声も出せずに泣いている。

今から思うと相当不安定ですね。

ようやく授乳にも慣れ、
赤ちゃん中心の生活にも慣れた頃。

“お金に不安があるのは嫌だ!”
“お金に困らない生活がしたい!”
“経済的に自立したい!”
と強く思いました。

“贅沢がしたいわけではない”

でも、

“安定した収入がない”

という事にこれほどまでにダメージを受ける
という事に気づいたのです。

“このままじゃダメだ”
“近いうちに貯金もなくなる”
“余力があるうちに人生を変えたい!”
“中途半端じゃなく激変させる!”

そんな強い想いが湧いてきました。

の生い立ち(12):未婚で娘を出産することになった訳

結婚を前提にお付き合いをしていた人がいました。
子どもを授かることはほぼ無理だと諦めていたから、
妊娠したことがわかった時は本当に嬉しかった。

すぐに報告したのだけれど、
どうも反応がおかしい。

そのまましばらく連絡がとれなくなり、
不安な毎日を過ごすことに。

母親の精神状態が
“お腹の子に影響する”とか読んだ事もあったし、
「不安な気持ちになっちゃいけない!」
と毎日が自分の心との戦いでした。

ようやく連絡がとれて
やり取りを進める中で、
その人には一度も一緒には住んでいないけれど
戸籍上の奥さんがいた事がわかった。

相手「なかなか言えなかった」

私の心の声「何言ってるの?それダメだよね…?」

それでも最初は、
「別れて一緒になれるの?」

とか、

「娘の事を考えたら、
認知してもらった方が良いの?」

とか、

「最初からお父さんが居ないなんて可哀想?」

とかグルグル…

話し合いも成立しないから、
インターネットや書籍で調べて調べて、
それでもわからなくて、
行政書士さんにもお世話になった。

本当は目を酷使したらいけない時期に
かなり調べました。

でも、数ヶ月経ったある日
「もういい、やーめた!」
「そんな人と無理に一緒になっても
私幸せじゃない」
「娘の事は私が決める事じゃない」
「娘の意思が出てきた時に一緒に考えよう」

と切り替わってしまった。

(別の側面から見ると
また違った事が言えるのだけれど、
それに気づくのはまだまだ先のこと)

私の最大の理解者であり応援者である母に相談したら、

「それでいい」

と力強く言ってくれた。

「私が稼ぐ!」と宣言して

「3年間助けて欲しい。」
とお願いをした。

そこから、
人生をガラリと変えるための行動を始めた。

の生い立ち(13):人生を変えるための行動を開始

【最初は全体像なんて見えなかった】

1番最初に
コレ!と思った勉強会に参加した。

そこで出逢ったご夫婦。
あまりに素敵なお二人。

ある時、
ご夫婦の自宅にある人を呼んでお料理教室をすると聞いて、
私、娘、母の3人でお邪魔することに。

お寺の境内のマルシェで食材の買い出しをして
メニューもそこから決める。
そして皆んなで料理。

娘はおんぶ紐で背中に。

いろんな話をして、
ずいぶんと長い時間が経った頃

「お金を増やす事に興味はありますか?」

と聞かれ、
「あります」

と即答しました。

そこで紹介された会社。
名古屋駅で開催されていた
連続セミナーに参加するようになった。

もちろん娘つき。

投資、不動産関係のセミナーだから、
いろんな人に
「赤ちゃん連れで参加する人は見たことない」
と言われた。

そして、懇親会で代表と直接お話しできる機会を得た。

正直に状況を話したところ、
「短期で出来るものも必要ですね」
「僕でも良いですし、スタッフでも良いですし
いつでも相談に乗りますよ」

と言ってくださった。

そして、実際に相談をして
期間を一年と決めていくつかの投資を始めた。

この会社のおかげで、
勉強する猶予が得られたのです。

そして
“キャッシュフローゲーム”というものに出逢った。

夜20時くらいから22時くらいまで
少人数で定期的に開催されていた勉強会。

車で名古屋まで走り、
娘を連れて参加するようになった。
交通費を抑えるために地道で走ったなぁ…

ここで出逢う方たちから
とても多くの刺激を受けました。

そして、何をするか具体的に考え始めました。

の生い立ち(15):手に職を!とインプットし続けた頃

【娘が1歳になる前から学びたいと思う場には昼夜問わず参加】

お腹に抱っこして何処へでも一緒に行きました。
逢いたい人にも逢いに行った。
距離、そして国すら関係なかった。

「何か収入を得る方法はないか?」
真剣に考えました。
新卒で就職した時よりも真剣に。

“娘と一緒に居たい”んだったら、
家にいながら収入を得るしかないよね…

「具体的に何をする?」
「手に職だ!資格を取ろう!」

そんな中で、
“勾玉セラピー”
“アクセスバーズ”
に出逢い、学びました。

しかしながら、
学んだものの動き出せずお金は稼げないままだったのです。

今までサラリーマンの経験しかないワタシ。
自分が作ったものを販売することも、
自分の技術を販売することも、
とてもハードルが高くて仕方がなかったんです。

それでも、
勾玉セラピー仲間に誘ってもらいイベント出展をして
きちんと対価を頂き
「セラピー提供する」
「勾玉を販売する」
という小さな経験を積んでいきました。

アクセスバーズは更にハードルが高く
家族や友人に提供する以外の活動は始められずにいました。

つまり、
銀行の口座の残高が減り続ける状態を継続していたわけです…。
この時期に保険も解約しちゃいましたね。

の生い立ち(16):個人で仕事が頂けるようになった頃

【ガムシャラに動く中で】

さまざまな人とのご縁が生まれ、
そのご縁から更なるご縁が生まれました。

この時期に出逢った仲間は
かけがえのない存在です。

この時期に出逢った大切な人は沢山いて書ききれないのですが…。
まずお一人のことを書きたいと思います。

ワタシと勾玉セラピーをつなげて下さったKさん。
簿記の資格もないワタシに、記帳代行のお仕事を下さったのです。

Kさんの会社の顧問税理士の先生に、
基本的なところからつまずいては質問をしてを繰り返しながらのスタートでした。

そして更に紹介をしてくださった2社のお仕事も頂けることになったのです。

ここで安定的な収入の柱が1本生まれました。

そして、Yさん。

今の時代に忘れられそうになっている
手仕事や食文化などを丁寧に伝えている方です。

我が家の皆んなが大好きなYさん。
よく親子3代揃ってワークショップに参加していました。

彼のおかげで
お味噌も麹もうどんも手作り出来るようになりました。
今では家宝となった糠床もあります。

沢山のステキな方に繋いでくださって、
藍染にも出逢いました。

今はまだ自分の生活に取り入れた程度ですが、
近い将来ワタシからも誰かに伝えていけるようになりたいと思っています。

ここでの経験は、
私が法人を立ち上げてから
経理にとても活かされています。
“最大級のありがとう”をお伝えしたいです。

の生い立ち(17):初めての情報発信を学ぶ

その頃購読していたある方のメルマガで、
情報発信を学ぶコミュニティーの開講を知った。

HさんとKさん
お二人から、そして仲間からも学べる場。

「ここだ!」
と感じた。

それまで、
資格を取ったこともなければ、
学校以外で学んだこともない私。

受講費の工面はもちろん、
“本当に活かせるのか?”

と自問自答した。

それでもやってみたい気持ちは変わらず、
申し込んだ。

【半年の講座】
最初の頃は、思考錯誤しながらも、
“自分に発信するものは何も無い”と思っていたから、
何も発信出来ない時期が続いた。

いろんな葛藤がありながらも、
2017年のお正月より投稿を開始。

普段の子育てをそのまま書いて投稿。
わらべ歌に救われた経験から、
わらべ歌を録音して一緒に投稿するようになった。

お外で歌ったものもあれば、
お布団で歌ったものもある。

上手では無いけれど、
母が子に歌うそのまんまが出ていたと思う。

この頃から毎日投稿する事を当たり前にしていきました。

そして半年の講座から卒業。

情報発信は継続していたけれど、
キャッシュポイントは作れずにいました。
今ならわかるのですが(←今なら というところがポイント)

“誰かに価値を提供できるものがなかった”
なにより
“商売をしたくなかった”んですね。

「何だソレ⁈」
です(苦笑)

「私が稼ぐ!」
じゃなかったのかーい!

一人ツッコミが入ります。。。

ようやく精神的に安定してきたこの頃。

だからこそ、
“私が稼ぐ”と決めた事を
改めて実行しようと考えられたのだと思う。

このコミュニティーで
ある方との出逢いがあるのですが、
それはまた改めて(^^)

の生い立ち(18):お金を稼ぐ事に強い抵抗があった頃

【外へ出すことが怖かった時期
〜大冒険の頃】

“勾玉セラピー”
“アクセスバーズ”
に出逢い、学んだワタシでしたが、
すぐには動き出せず、
お金は稼げないままだった。

前回書いた”情報発信を学ぶコミュニティー”
で出逢ったMさん(女性)。

TさんMさんが主宰する
ビジネスコンサル塾へ入った。

ここは
「ここってビジネス塾ですよね?」
が、頻繁に仲間の口から飛び出す
とんでもないところ。

ビジネスの仕組みを構築するのは勿論ですが、
受講生の課題によっては、
トラウマであったり、さまざまなブロックを
解消していく事も日常茶飯事。

ここでは
いっぱい泣いたり笑ったり、
全力で逃げようとしたり、
自分に向き合ったり、

たくさんの仲間が出来た。

仲間で一緒に何かをするわけではない、
それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。
でもタイミングが来たら
一緒に集えるんだろうなと感じています。

おかげで、
“勾玉セラピー”と”アクセスバーズ”が動き始めました。

勾玉セラピーを提供する事、
勾玉オルゴナイトを作り販売する事、
が出来るようになり、
現在では伊勢神宮外宮前のお店とウェブショップ、
完全オーダーの受注生産で販売させてもらっています。
(現在お休み中〜これはまた改めて)
アゼルバイジャンのJAPAN EXPOにも出展しました。

“アクセスバーズ”
アクセスバーズの提供が出来るようになり、
出張を主に活動していました。
のちにファシリテーターの資格も取得したので、
プラクティショナーの育成も出来ます。
(現在お休み中)

こうして少しずつ収入の柱を増やしていきました。

しかし、これにも悩みがありました。
当時は他県のお客様のお宅へ伺う事が多く、
移動費を抑えるために地道を走るのですが、
移動時間が往復4時間以上かかるのです。
セッション時間と合わせると、6時間〜8時間家を離れることになってしまったのです。

「家で娘といたくて会社員を辞めたんだよね?」
「家で仕事をするために手に職をつけたんだよね?」

“これだけではダメだ”
“このままだと勾玉セラピーも
アクセスバーズも嫌いになってしまう”

そう思った私は更に行動し続けました。

の生い立ち(19):法人会社のメリットに気づいた頃

そしてその時はやってきました。

インターネットや書籍などで情報収集をする中で、
【法人会社のメリット】に気づいたのです。

2016年9月
法人会社の設立を決意。

しかし、設立は決めたものの
知識もない、ビジネス経験もない、
資金もない。
ないない尽くしの私。

途方にくれました。

そんな中でも不思議なのは

【早くて2017年3月、遅くとも7月には法人会社を設立する】

といろんな人に言っていたのです。

2017年3月
あるコミュニティーでご縁を頂い方から
声をかけられました。

その方は法人会社を複数経営している人でした。

「今までに培った経験をもとにサポートをします。
法人会社を設立する気はありますか?」

と聞かれました。

即座に「やります」と答えていました。

そして、2018年7月
株式会社を設立。
代表取締役となりました。

それまでに細々と続けていた個人事業からの
法人成りでした。

の生い立ち(21):法人会社設立

設立のための準備が始まりました。

4月
定款に載せる事業内容を決定
社名決定
5月
会社の印鑑セットが届く
7月
ロゴ完成

全てが初めての中、
Mさんから適宜アドバイスをもらいながら進んでいきました。

設立代行センターから定款が届いたり、
会社の印鑑セットが手元に届いたり、
ロゴが納品されたり、

その度に
「本当に法人会社を設立するんだ」
という認識を深めていきました。

必要書類を揃えて、
ついに登記の日がやってきました。

人生で初めて訪れる法務省。

チャーミングなおじいちゃん先生と仲良くなりました。
無料相談のおばさん先生にも
「しばらくは自宅でするのね?」
「はい、節約節約なのです」
と終始和やかにお話ししてきました。

無事に登記完了です。

8月
税務署より給与支払い開始日の確認電話が入る
“給与を出す”という感覚が初めてでドキドキしました。

9月
メインバンクと日本政策金融公庫から融資の資料を渡される。
個人事業主時代の貸借対照表、損益計算書の提出を求められ、
いろいろ調べながら準備をする。

しかし、新規創業とは違うため
使える融資が異なる模様。

「うーん、いろいろなことが初めてすぎて分からない…」

の生い立ち(22):法人会社を始めて環境の重要性に気づいた頃

実際に走り始めて気づいたことがあります。

【現在進行形で最前線で戦っている先輩のアドバイスを受けられる環境】

この環境が重要だと気づいたのです。

「インターネットや書籍で調べるけれども、皆言っていることが違いすぎる…」
「これは一人では無理だ」

途中で、彼に最初に言われたことを思い出しました。
「一般常識とは異なるので、インターネットで調べた情報を鵜呑みにしないようにね」

法人設立から1年がたった今、
何を言われていたのかが良く分かります。

2016年に
「法人会社を設立する」と決めた時から
おぼろげながら分かっていた事があります。

もう「時間がない」のです。

自分一人で戦い
前に進んでいくことは出来るかもしれない。
でもショートカット出来る方法があるなら、
ワタシはそれを選びます。

なぜなら、
もう「時間がない」から。

2017年3月
情報発信を学ぶコミュニティーでご縁を頂いた
法人会社を複数経営している”マサムネ”に声をかけられ、

「今までに培った経験をもとにサポートをします。
法人会社を設立する気はありますか?」と聞かれ、

即座に「やります」と答えた時。

その時「私はマサムネさんを信じる」と決めました。

経営者としてのマインドも何もない状態からのスタートだったから、
最初は言っていることが受け取れないことも多かったです。

その時には全く気づけなかったのだけれど…
私がどこまで受け取れるかによって、
その時点で「どこまで伝えるか」もコントロールしてくれていました。

いまだ見たことのない世界のことは、
想像したり想定したりしても違う事の方が多すぎました。

それでも1年間やってこれたのは彼のおかげです。

6月に決算を迎え、
今顧問税理士の先生に最終チェックをお願いしています。

ようやく1期を終えました。

最低でも3期。
コツコツと信用を積み上げていく必要があります。
そうしないとステージに立てないのです。

そこは、法人を設立した時からブレずに持っている想いです。

これからも初めての経験をしていくことになるでしょう。

でも私の強みは
“一人で戦っていない”ということ。
“仲間がいる”ということ。

何より生まれて初めて
「お金のこと、お金の使い方、
お金の増やし方、お金の残し方」を
真剣に話せる仲間が出来たという事が
何ものにもかえがたい財産だと思っています。

だから怖くない。

法人会社1年目、

“誰と一緒にやるか”

が一番重要だと心の底から感じた1年でした。

の生い立ち(23):法人戦略の力を伝え始めた頃

【いろんな”初めて”に
チャレンジして分かったこと】

・メルマガに”初”挑戦
・個別相談を”初”募集
・”初めて”仕事に対する想いを発信する

いろんな “初めて” が続いています。

決して、
・自信があるからやる
・出来るからやる
・準備が出来たからやる

では無いんだな…と実感する日々です。

私はずいぶんと長い間
・まだまだダメ
・こんなのじゃ外に出せない
・やり方がわからない
・最後まで出来てから

と、”自分の中”での100%を目指して
「いつまでたっても動けない」
というパターンを
繰り返してきました。

・出さないから誰にもわからない
・失敗もしないけれど成功もしない
・いつまでも前に進めない
・なにも変わらない

出せば
・失敗するかもしれない
・非難されるかもしれない
・失望されるかもしれない

って思っていました。

今、そこから卒業したいと思っています。

メルマガなんて、
設置してから1年以上
何も出来ずに放置していました。

【みなみゆきのメルマガ(仮)】
というタイトルの時代に
登録してくださった方も
いらっしゃいました…

“マサムネ”
に言われて、

過去の掘り起こしを始めたのは
2018年に入ってからでした。

書こうと思いながらも全く書けず
それから半年ほど逃げて
ようやく書き始めたのが、
ここ3ヶ月くらいでしょうか。

生まれた頃から今まで、
書けるところから書いていました。

でもどうしても書けない時期がある。
その事にも気づきました。

その時期は
一時的に蓋をして何とか乗り越えてきました。

でもそろそろ蓋を開けて
“向き合って消化する時期”
なのかなと感じています。

その書き起こしの中から、
娘が生まれてからの事を
Facebookに投稿していきました。

また
“法人戦略”を実行する中で感じた事や
私が何を目指しているか
などをメルマガで発信していきました。

メルマガの読者登録リンクをご案内した時は、
まだ6通しか書けていませんでした。

「何を書こう…」と頭を抱えていました。

そこから6通書いて、
12通になりました。

途中で何を思ったのか
音声メルマガにしようと思って、
iPhoneで録音してiMovieで編集、
YouTubeにアップロードました。

「棒読みやー(泣)」

なんて一人ツッコミしながら、
何も改善しないまま、
公開するという…

そうする事で、
自分の逃げ場をなくしていきました。

でも、
発信してきて良かったと思います。

発信していなければ
出逢わなかった人たちとご縁が繋がりました。

インターネットの世界で
出逢った人たちと
お話出来る機会を得る。

当たり前のように思いがちですが、
これって凄いこと。

の生い立ち(24):周りから「私(ゆきの)が変わった」と言われるようになった頃

周りから「私(ゆきの)が変わった」と言われるようになった頃

法人設立より1年が経った頃から
周りにいる人たちから
「ゆきのさん、すごい変わったよね」

と言われることが増えてきました。

自分では全く気づいていなかったのですが、
特に3年前までの私を知っている人から言われるのです。

皆さんの声を聞くと
「Facebookでの発信内容が変わった」
「笑顔が素敵になった」
「自分を信頼しているように見える」

そして
話が聞きたいと言ってもらえるのです。

そこで私は考えました。
私に何があるかは分からないし、
自信なんてないけれど、

人生を激変させるの決めたあの日から
・何をしたのか
・どんな想いがあるのか

伝えようと思い始めました。

たった一人でいい、
“人生を変えるキッカケ”
になればと思って情報発信を始めたのです。

ちょうどこの頃
法人戦略の師匠である
“マサムネ”から

「ゆきのさんの紹介なら良いよ」
と言ってもらえたので

《人生を変える30分無料相談》
というものを開催していました。

そこでたくさんの人と
お話をしました。

お話を伺っていくと、
それぞれ状況も異なりますし、
目指すものも異なる事がわかります。

でも共通する事があるんです。

「人生を変えたい」
「大切な人を守る力が欲しい」

周りから見ると
既に成功しているように見えるけれど、

「あと一歩のところが
どうしても抜けきれない」

という方もいらっしゃいました。

お話をしていると
皆さんに言われます。

「大変な状況からよくここまで来られましたね!」
「凄いです!」

でも以前にも書いたように、
私のスタート地点は

知識もない
ビジネス経験もない
資金もない

ないない尽くしだったんです。

そんな状態から

“マサムネ”

に出逢った事から、
大きく人生が変わり始めました。

私がしたことは、

「人生を変える」

と決めた事です。

そして、
「チャンスを逃さなかった」

1年半前

“マサムネ”

の手をとらなければ、
今の私はいません。

“マサムネ”
に聞いてみました。

「あの時のワタシのように、
<人生を変えるキッカケ>
を探している人がいます。

ご縁があって私の投稿を読んで、
想いを伝えてくれる人がいます。

ワタシが渡せるものはまだまだ少ない。

でも”ご縁をつなぐこと”は出来ます。

何とか直接お話が出来る機会を
作ってもらえませんか?」

“マサムネ”から

「本気で人生を変えると決めている人なら良いよ」

と言ってもらい、

・人数限定
・期間限定
という条件で引き受けて頂きました。

ここに飛び込んできてくれた人の中から
7名が法人戦略を共に歩む仲間になりました。

全員女性♬

2019年4月の時点で
7名の中の4名が
株式会社の代表取締役となりました。

の生い立ち(25):情報発信を学ぶコミュニティを立ち上げた頃

続く
(2019.4.16)

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